昭和49年01月07日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修業じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節を付けたりせんでも、人にものを言うとうりに拝め。」
信心をさせて頂く者が、終始、心掛けておらなければならない事。信心の稽古をさせて頂く者が、いつも心に掛けておらなければならないこと。まして、信心というものが、私どもの一番大切なもの。いや、私どもは、この世に生を受けたと言うことは、真の信心をさせて頂いて、徳を受けて、そして、永劫助かる道を体得する。そこに私どもの、この世に生を受けたという事を分からせて貰う。
それほどしの事ですからここん所の、信心を心掛けて居らなければ、あの世この世を通して、幸せに成れると言うことは出来ない。そこでその過程と致しまして、やはり天津祝詞も大祓いも覚えなければならん。拍手も工夫をして拍手の音を、自分で鳴らす拍手を自分で聞いて聞き取れる様な拍手の音が出るようなおかげも、頂かなければいけない。自分が、大祓いを一生懸命奏上させて頂いて居る、その大祓いに自分が聞き取れ、聞き惚れる様な大祓いも、あげられる様に成らなければいけない。
ここで例えば大きな声をする事は要らんとか、又は無理に拍手も大きな音をたてることは要らん、神には聞こえる。本当に神様に聞いて頂くと。ただ聞いて頂頂けじゃいかん。聞いて返ってこなければいけんのである。神様が聞いて下さった事が、またこちらに返ってこなければいけん。それが有難いとという心なんだ。ですから段々信心修行させていただいてです。そう言う所にも心を使い工夫させて頂いて、拍手も本当に澄みきったような拍手が打てるようになり。
大祓いも自分が自分で上げさせて頂いておる、その大祓いの声に聞き取り、聞き惚れる様な大祓いも上げられる様になり。神様が大きな声ですると、やかましかと仰っておられるのでは無いのです。問題はここでは、真をと言う事を教えて居られるのです。だからそういう有難い拍手の音音色にしろ、又は大祓いを上げさせて頂く、その声色にしろ自分も有難い、神様も有難く受けて下さると言う様なおかげを受ける。
私は信心の稽古と言う事は、形の上ではそう言う事もあると思うです。何年お参りしよったって、一人で大祓いが上がらん様な事ではいけんのです。それは始めの間は、ただ人に物を言う様に申し上げたら良いのです。例えば願い事頼み事の時にも、こんなわけで困っております。どうぞよろしゅうと他人にものを言うとうりでいいとおっしゃる。けれども信心というものがです、只そういうおかげを、願う時だけの神様では無くて、言わば徳を受けると言う事。
しかも徳を受けると言う事は、この世に生を受けたという値打ちは、この世で徳を受けてこの世で有難くならせて頂いて、その有難いものをあの世までも、持っていけれると言う所に、又行くという所に、天地の親神様の願いがあるのです。氏子信心して、おかげを受けてくれよというのは、あの世この世を通して助かってくれよという事なんです。そういう大変な事だという事が分かったらです。
言わば神参りをするに雨が降るから、風が吹くからえらいと思うて、何かちょっと都合があるともうそれにかまけてしまって、信心の稽古を怠ると言った様な事は出来なくなって来る。信心が血に肉になってしまう。だからここまでをお互いが疎かにするから、そこの処をここでは教えておられるんだと思うんです。そういう大事な事なのだから、そう言う事である事が分かる処まで、信心を頂いて行かなければいけない。
そして雨が降るから風が吹くから、いろんな都合があるからと言うのではなくて、そこの所をです辛抱をする事が、身に徳を受ける修業。そこん所を乗り越える事が、身に徳を受ける修業である。自分勝手の信心ではない、自分の都合でする信心ではない。そこん所が分からせて貰って、成程雨が降るから風が吹くからと。そこを一心を貫いて神様へ向かわせて頂くその心というものは、そこん所を貫いた者じゃなからなければ分からない。成程そりゃ雨が降ったり風が吹いたり。
いろんな都合がある所は、出難かったり又は、しるしかったりもありましょうけれども。そのしるしい所を通るからこそ修業なんだ。でなかったら修行じゃ無い。昨日の朝の御理解の後に、この一月間の、寒修行をさせて頂くのに、『怠慢』と言う。いわゆる怠慢無礼な事があってはならない。その『怠慢』と言う事を頂いて、昨日は大変皆さんがおかげを頂いた。まあ怠慢のいい事に驚く。私自信も例えば怠慢という事を思い続けさせて頂いたら、もう本当に今まで怠慢であった事に、改めて気付かせて頂く。
あれも怠慢であったろう、これも怠慢であったろうと。私はこの六十八節はそういう「怠慢」が出らんように教えて下さっておると思うです。雨が降るから風が吹くから、自分に都合がいいから悪いからと言った様な事でです。そこは都合もあろうけれども、そこの所を乗り切ること。そこの所の辛抱こそが身に徳を受ける修行と言う。その身に徳を受ける為に、修行をさせてもらっているんだ。
ですから一番大事なところを疎かにしておるのです。これは「おかげを受ける」と言う事と、身に徳を受ける修行と言うのは、自ずと違う訳です。この寒修行の間に、皆さんが一つ本気で、天津祝詞大祓いがです。そうですね五日間本気になりゃたいてい頭の悪か者でも、五日位掛りゃ覚えられるもんです。実を言うたら五日掛らんです本気になりゃ。大祓い一つ位覚えるのに。一心にならんから覚えんのですよ。そしてもう腹の底から、大祓いが奏上出来れる。
そして一生懸命に大祓いをあげると言う事が、こんなに有り難いものかと言う事を分かるがいい。その有り難い心で神様に願う、御礼を言う御詫びをする。昨日、久富先生が、何回もそれを言われる。親先生今年の信心の信条と言われる、中心と言われる「御世話になります」と言う事の、素晴らしい事にそれに取り組んで見て、愈々思いますとこう言われる。その御世話になりますと言う事の、深さ広さもう限りがない。そういう限りのない有り難さと言うものをです私共が行ずる。
今日皆さんに私が呼かけておる。大祓いを奏上させて頂くでもそれこそ一心不乱。他の物音なんかは聞こえん位に、一心不乱に一生懸命腹の底から、それこそ温もる様に一つ上げて見る。成程有り難い事が分かる。それを覚えてしもうてからもう暗記が出来て、そしてあっち見たりこっち見たりして大祓いをあげる様な事では、神にもそう言う様なものだけれども、一心をもって大祓いをあげると言う事。嘘ではない本当に神様に近づきたい。本当の信心が分かりたいと思うて、一生懸命大祓いをあげて居るんだ。
拍手の稽古もさせて頂いて居るんだと。有り難い音色に自分で自分が聞き取れる様な、拍手の音色と言う事。又は大祓いをあげる声色と言うかそういう所を、私はふんだんに通らせて頂いて、充分通らせて頂いて初めてです。静かな静かな心中祈念と言うものは出来るんだと思います。私が皆さんよりも、少しは信心が分かって居らなければならないし、分かって居ると致しましてもです。分かって居るだろうと自分で思います事はです。私は御神前に座ったらもう神様と通うです、拍手を打つ前に。
朝の場合なんか取分けそうですけれども、拍手を打つ暇がないです。神様が待ち受けてござるです。いや神様の方から先におはようと言われとる様な感じがするんです。そこから私の祈りとか思いとかというものの神様の祈りとか、神様の思いと言うものが交流する。成程神様は心に思うただけでも、聞き届けておって下さる。分かっておられるなという事が分かります。思うただけでもお勇を頂く事があるでしょう。皆さんが有り難い事を思うと。必ずしも言葉に出して言わなくてもいいのだと。
けどそこまでのですおかげを頂かせて頂くために、私は稽古が要ると思うです。一心不乱にこりゃ御広前だけではないです。ご自分の家ででも御祈念をさせて頂きもらう時には、隣の御祈念が始まったなと、隣の人が分かる位な御祈念をしたいです。あそこは金光様の信心をしござるばってん、拝むとは拝みござるじゃろかげな事じゃいかんです。本当にちゃっと御祈念の時間になると、一家中が隣までも聞こえる位な、大きな朗々とした声で大祓いがあがっておる。
はっ隣の御祈念が始まった何時じゃろうと、隣の者が解るくらいな御祈念をしたいですね。ただちょっと御礼をする。そりゃここんところで間違えてはならない事はです。大きな声をしてはいけない。拍手も無理に大きな音を立ててはいけないと言うのじゃないのです。本当に御神前に座ったら、もう神様と交流する事の、それこそ大きい音を立てなくっても、声に出して言わなくても言葉に出して表さなくっても、神様を思うただけでも聞いて居って下さる。
又神様の言うて下さる事が、黙って心の中に入って来る溶け込んで来る様なです、おかげを頂くために、信心をさせて貰うのですが。それに要るのが真、真心です。だから真心をもって一心に、大きな声で大祓いでも上げた方がです、私どもも素人の時には一番、神様に通う心の状態と言うものが生まれるです。問題は神様と通わなければ駄目。神様が思うても言うても、一つも聞いてござるやら、聞いてござらんやら。成程神様は見てもござれば聞いてもござるでしょう。
問題はそれに受け返事がなかったら値打ちは無いのですから。久富先生が、昨日言われている様に、とにかく御世話になりますと言う事の、広さ深さと言うものがです。分からせて頂けば頂く程です。昨日は一日感動のし続けでした。そうでしょう自分の周囲には、神様の御世話になっておる事ばっかりなんだから。例えば昨日一緒に御風呂頂く時も、それを言うて居られましたが。こうして御風呂頂いておるが、こうやって御風呂へ入って、あぁ極楽と思わせて貰うだけ、そこだけで有り難いと言うたのでは浅い。
ここまでには、随分な神様の御手間を掛けておる事であろう、神様の御世話になっておる事であろうと言う事がです。分かれば分かるほど、その御世話になりますが深くなって来る。言うならば御世話ななると、いっちょいっちょ口に出して言いよんなさる訳じゃなか。そう思いよんなさるだけだけれども、感動が湧いて来るというのは、神様が聞いて受けて返事をしよんなさる姿です。神様からの御言葉が、神様の御答えと言うのは、私共が有り難いという。神様がそれは神様自身が有り難いと思うてござる。
久留米の井上さんが元旦の時に、今の御世話になりますという、その事を今年は是でいこうと思うて帰らせて頂いた。只今から御世話になりますと、ガスレンジに御願いをした。只今から御世話になります。それから使い終わってから御世話になりましたと、御礼を申し上げた。途端どこから湧いて来るか分からん感動が湧いて来た。御世話になりますを神様が聞き届けて、しかもそれに返事をして下さる姿なんだ。井上峰子さんが感動しござるのじゃない。神様が感動しござるのです。
夜の食卓を一家中で頂いた。甘いの辛いの何とか言われる御主人がです。その日に限っては今日んとはちょいとよう出来とる。今日んとはとても美味しいと言うて、頂かれたと言う。そこにはもう体験が生まれておる。だからそう言う様な事が、必ずしも言葉に出して言うと言う事じゃなくてその心なんです。その心と言うのはお世話になりますの内容が、愈々深く広くなって来る時に、それが自分のものになってしまう時に、そういう有り難い体験が頂けれるとこう思います。
しかもそういう信心をです。雨が降るから風が吹くからで、中途半端な物にする事ではなくて、色んな都合がある事によって、中途半端にするのではなくてです。その辛抱こそが、身に徳を受ける修業と仰せられるのですから。そこん所を大事にさせて頂いての、信心をさせて頂く所からです。大きな声をしなくても拍手を無理に打たなくても、神様は聞いてござる確かに見てござる。けれども見てもろうたり聞いてもろうたりしとるだけじゃつまらん。返事が返って来なければ。そこまでの修行をです。
私はそういう修行をさせて頂けという、信心させて頂く者の心掛けという様な物を、六十八節には教えて頂いておると思うのです。どうぞ皆さんもう何年も信心しよるけれども、まあだ大祓い一つが、自分一人であがらないと言う様な人は、この寒修行中にひとつ本気でそれを覚えて、しかも自分にもこんな良い声が出るじゃろかと言った様な、良い声で大祓いをあげられる、一生懸命にあげられる様なおかげを頂くと言う事だけでも、寒修行の値打ちがありますよね。
どうぞ。